酒と映画の日々

土曜日、まずは池袋の安い酒場にいき、常連たちと古い映画の話をする。常連の中にふたり、映画大好き人間がいた。ひとりは、かなりの年配で昔からの映画をよーく記憶していた。もしかしたら、その映画を作った監督やスクリプターよりも映画のワンシーンワンシーンを記憶しているかもしれないほどだった。戦前派の彼は「若い頃、娯楽は映画しかなかった」といって、埼玉県S市に帰っていくのだった。きっと映画館もない町だったに違いない。もうひとりの常連は、マリオより少しばかり年長だが、身長はかなり高い映画青年だった。喧嘩も強そうだったが、そういう現場には居合わせたことはない。どこに住んでいるのかも謎だった。
ほろ酔い気分でマリオはその安い居酒屋を出て、文芸坐にいく。たしか全席指定だったような記憶がある。場末の映画館の、深夜の指定席。なんだか自己矛盾の固まりみたいな状況ではあった。
夜10時、1本目が始まる。小津の場合は、1本目は弁士付きの無声映画だった。さらりと書いちゃったけど、この時代、弁士の付いた無声映画なんて、そうざらにあるもんじゃなかった。2本目になると、猛烈な睡魔が襲ってくるが、気持ちよくその波を乗り切る。急な階段状の2階席の2列目あたりで足を伸ばして観るのが、気持ちよかった。足がほどよく短かったからできた芸当だったといえよう。館内のあちこちから鼾も聞こえてくるのが常だった。当時、もちろん禁じられていたが、館内でタバコを吸っている客が多かった。田舎出の潔癖な青年マリオとしては苦々しい思いで、ジッポのライター取り出し、小気味よい音を鳴らしてショートホープに点火するのだった。大らかだったといえなくも無い。足下は吸い殻だらけだった。
4本目が終わるころ、しらじらと夜が明ける。もう始発電車は走っていた。立ち食いそば屋ののれんの向こうには湯気が立っていた。ことに冬の明け方は、それがうれしかった。
今は、名画座という言葉もなくなってしまったが、都内にこのような名画座がいくつかあった。賢明なる読者の皆さんはお気づきと思うが、文芸坐の坐は、名画座の座でも挫折の挫でもない。どちらかというと坐薬の坐である。この「坐」には、もう忘れたが深い意味があったようだった。挫折と左折ばかりの人生を歩んできたマリオには縁のない文字だったので、その意味は忘れた。
名画座は、渋谷、銀座、飯田橋、新宿、小岩、文化的には最果ての?東上線上板橋にもあった・・・。この、上板東映の支配人は、なんと映画製作まで手がけた酔狂人であった。いや、強靱な粋人だったというべきだろう。彼は若手映画監督を育てるつもりだったのだろう。が、その前に、上板東映がつぶれてしまった。若手映画監督が育っていったかどうかは、この際問題ではない。事実だけをたどっていこう。