進化するサル

ダイナブック初代機爪に火をともすようにして東芝ダイナブックの、しかも初代機を手に入れたマリオは、同時に3つのソフトをも購入した。おかげで、爪がすべて燃え尽きてしまったほどである。
ワープロといえば、当時は与太郎という愛称をもっていた「一太郎」全盛の時代だった。表計算はというと、まるでかけ声みたいなロータス社の「1・2・3」が席巻していた。ところが、それらに反旗を翻して廉価版が売り出されていた。「一太郎」や「1・2・3」は非常に高価で、正確な価格を知る人はほとんど皆無といってよかったほどである。なのに、高値のハナにもかかわらず、市中に大量に出回っていた。不思議だが本当だった。
当時はフロッピーベースで、きっと複製という作業も簡単だったろう。一太郎のバージョン4あたりで、フロッピーが4枚だったと記憶している。バグがすぐに見つかり、バージョンは4.3に格上げされた。「四太郎」ならぬ「与太郎」と尊敬された所以である。与太郎も偉くなったものである。このバグの量とバージョンは比例の関係にあるのだろうか。
そんな状況を憂慮したかどうか、「ソフトが高価だから、コピーが出回るんだ」と、アシスト社のビル・トッテン氏が廉価版のワープロ表計算、データベースソフトを発表したのだ。なんと、9800円という驚異的な庶民価格だった。まんまと、マリオはそれに乗せられ、購入したのだった。同じビルでも、トッテンにはついて行けそうな予感があったからだ。ゲイツまでには身をもち崩したくなかった。
Type Quick for Windows Version 2.0
もう一本。そう、3本目にそっと購入したのが、今も身体の隅々まで息づいているソフト。タイプトレーニングソフトだった。すばらしいソフトであった。どうやら倒産しているわけではなく現在も、もちろん販売されている。その名も、「タイプクイック」。
初めてパソコンを購入する人にその使い方を教えるとき、マリオが必ずいうことがある。

入力が苦にならないよう、タイプの練習を! 誰でもできます。たとえ、あなたがサルだったとしても。

ボールペンでメモするよりも早く打てるようになる。誰でも練習すれば必ず、そうなる。タイプこそが、パソコン好きになる近道なのだ。パソコンがなくては生きていけない、そうならなくては、パソコンと心中などできはしない。PC依存症への三里塚、それがタイプトレーニングなのだ。
たった3か月。そう、それだけあれば、誰でもキーボードを見なくてもタイプできるようになる。人生をだらだらと生きているのなら、そのうちの3か月だけ、毎日15分ずつトレーニングしてほしい。
タッチタイプができると、まず眼が疲れない。キーボードと画面を、交互に見ていると、それぞれの明るさの違いで眼が疲れるが、キーボードを見ずに画面だけ見てタイプできればその疲労度はずっと小さくてすむ。
レーニングを積んでいくと、いつしか画面さえも見ずに打てるようになる。座頭市の境地といったらお分かりいただけるであろうか。そのうち、気がついたら、指先が勝手に打っている状態にさえなるのだ。そう、心の叫びをキーボードに叩きつける自分がいるのだ。いや、大脳髄質に封印された胎児の頃の記憶さえも、無意識のうちに指先がタイプするようになる。いや、さらに突き進んで人類がアフリカで産声をあげた太古の昔まで遡ることも決して不可能ではないだろう。禁断の記憶がいまキーボードを経て明らかにされるのだ。そのとき、タイピストたちはきまって陶酔の表情を浮かべ無我の境地へと至るのだった。
ところで、このトレーニングソフトの凄いところは、「褒めてくれる」ことだった。そう。ソフトの分際で、その身分もわきまえず、ソフトを購入したところのご主人である人間様に向かって、「ずいぶん早く打てるようになりましたね。また、明日も忘れずに練習しましょう」。などというメッセージを、そう、しかも毎日違うメッセージを表示し、「励まして」くれるのだ。人間、ここまで堕ちることができるのだ。
このとき、マリオはサルになった自分を実感していた。そう、サルでもできるのだ。きっと。ともあれ、ソフトのあまりに人間的な褒め殺しと励ましの甲斐あって、3か月後には、なんと1分間あたり200タッチ以上のスピードに達したのだ。もちろん、ミスタッチは1分間あたり200文字に迫る勢いに達してもいた。これぞサルにはできない芸当であろう。