ドスに出会う

マリオは時代の流れに棹さしながら漂流し続けて、ついには映画の世界からテレビの世界へと流れ着く。助監からディレクターになったのだ。たんに漢字からカタカナになっただけではない。一般には聞き慣れない言葉なので、この変化をわかりやすく言い換えてみよう。
つまり、ひと言でいうならば、

平安京の女官がヒルズのコンパニオンになった

といえば、おわかりいただけるだろうか。たいへんな変化であることに変わりはない。
それは忘れもしない、1990年4月のことだった。ある大手IT企業のビデオを作ることになった。あまりに大手なので、ビックリしないように、ここでは敢えて企業名を伏せておきたい。その大手データ通信会社からのビデオの発注内容は、こうである。
ソ*トウ*ア開*手法*社内*修*ビ*オ。(差し障りがあると困るので、一部伏せ字にした)
つまり、ソフトウェアを開発するときの手法をビデオにまとめ、社内での研修用に使いたいというのである。
ちょっと。これは、もしかして、プロのプロによるプロのためのプログラムなの? しかも、何巻にもなるというのだ。素人のマリオには無理だと思った。だが、研修用だから、教材があるという。それを台本化すればよいとも。ならば、と作ったわけである。
これは、すごかった。すさまじかった。何がなんだかわからないうちに、その翌年、なんと改訂版までこしらえる羽目になった。すごいことではあった。
その、大手IT企業も、素人のマリオに作らせるってのも、冒険であったはずだ。
この作品についてくれたAD(アシスタント・ディレクター)さんは、じつはかつてコンピュータを勉強したことがあったようだった。彼女は、驚いたことに、「バッチファイル」なんて言葉を知っていた。「へー。バッチリだね」。それ以降、彼女のマリオを見る目に尊敬と畏敬の念がかいま見えるような気がしてならなかった。世に言うオヤジギャグのハシリだった。しかし、このAD嬢、年季明けを待たずに、別の会社に行ってしまった。ゲームソフトの会社であった。もちろん、ギャラも大幅にアップしたという風の噂だった。まさに、下克上の時代だった。そういえば、マリオがついたあるチーフ助監督は、現在、とある大手ゲームソフト会社代表取締役である。目眩がしそうだ。
それはともかく。ソフトウェア開発手法の台本を書いていたとき、ついに、あの言葉と出会ったのだ。そう。まさしく、すれ違いの第2段階なのであった。

MS-DOS

ドスがついにマリオの前に立ちはだかったのだ。これを倒して乗り越えなければ、作品は完成しない。マリオは観念した。こうなれば、もろ肌脱いで、対峙するしかない。
ドスの刃紋は優美を極め妖しかった。見つめていると、心を奪われてしまうといわれていた。しかし、目を離すことは、マリオにはできなくなっていた。そのときだった。
確かに、マリオは見た。MS−DOSの隠された魔性を。それは、日本刀の刃と地金との間に煌めく「匂い」とも「にえ」ともいわれるもので、ドスのドスたる所以たるものどすぇ…。
まだ、ウインドウズのかけらもなかった時代であった。
時を同じくして、衝撃的なノートパソコンが登場した。A4ファイルサイズといわれていたが、なぜか昨今のA4ファイルサイズよりも、ずっと大きかったような気がするが、気のせいだろう。その名も、

DynaBook J3100SS 001

金もないのに、マリオの触手が妖しく蠢くのだった。
NEC全盛の時代にあって、世界標準をうたった機種である。キーボード配列も、今の英語版配列とよく似ていた。マリオは、だから今も英語はできないのに、英語版キーボードを使っている。カモのヒナのように刷り込まれてしまったのだろう。初めて使ったキーボードや仮名漢字変換の呪縛からは逃れられないのである。

いよいよ、マリオとドスとの本格的な出会いが始まるのだ。その先に、グリーンサイクルが見えてくるのだ。
それにしても、無駄に長編になるような気がしている。気のせいだといいのだが。

いよいよ全貌が現れそうな、次回をお楽しみに