絵のない自画像-5

パンドラの筺

初代のダイナブックが発売されたのが、1998年の6月。実際に出回ったのは7月だった。価格は、衝撃的な198,000円。
マリオが手にしたのは、その年の秋も深まった頃だった。初代ダイナブックのCPUは80C86というかなりの原人だったが、それから2台のダイナシリーズを渡り歩くことになる。たしか286と486だった。このときすでに、「中古道」を歩み始めていたといえなくもない。しかし、それは、中古道を好んで歩いたわけではなく、ただ単に貧乏なために中古パソコンを買っていたに過ぎなかったと言えよう。
嗚呼、ビンボウ。懐かしい響きではある。
貧乏。誰もが貧乏という言葉と背中合わせに暮らしていた。
そう、貧乏。ポケットを振ると、ホコリ舞い散り、bingbong bingbongと音がした。
しかし、貧乏だから中古。その図式が大いなる変化を遂げる。そう。中古にこそ見いだすことのできる緑豊かな地球の未来。その扉を開いたのは、90年に日本法人を開設したコンパックだった。あ。ご存じない方にひとこと。コンパックは、現在はその暖簾を降ろし、ヒューレットパッカードに吸い込まれてしまっている。まさに、時代の変化に敏感な企業といえよう。
マリオは、コンパックのプレサリオというデスクトップの本体のみを購入した。やはり、貧乏の成せる業であった。コンパックは92年、驚異的な価格で日本市場に殴り込みをかけてきた。世に言う「コンパックショック」だった。
ハードディスクが200だったことだけは覚えている。200MBであった。くれぐれも200GBではない。それでも、広大な大地に見えた。200坪、いやいや、200町歩。おお。あこがれの200ヘクタール!東京ドームなら42.5個分だぁ。
マリオは意気揚々、本体のみを抱えて帰った。即座に中古モニターをつなぎ、電源を入れた。入れたはずだった。なのに、画面は真っ黒のまま。闇の世界が広がっているばかりだった。まさか。モニターが壊れた?
メーカーのサポートは親切だった。「中古のモニターとの相性は保証できません」
うーん。丁寧な電話サポートだった。「モニターが壊れたに違いない」そう判断したマリオは即座にアキバにとって返し、別のモニターを購入した。このあたり、記憶が定かではない。三菱のモニターだったかもしれない。ソニーのモニターを購入したこともあったが、どちらか忘れた。

遠い夜明け

モニターを交換して、電源を入れた。入れてみた。悪夢をみているようだった。闇はいっこうに晴れる気配がなかった。電話に頼るしかできないマリオだった。当時、コンパックはオンサイトサービスというのを無料で展開していた。まさに、家まで出張してくれるのだ。若い技術者だろうか、やってきて、いくつか手順を踏んだ後、ついに、筐体を開けることとなった。まさに、いま、開かれんパンドラの筺。いや、未来への扉
彼は、律儀に調べていった。
ふっと、若い彼の頬に笑みが浮かんだ。マリオは見逃さなかった。一条の光明が差したかに見えた。電源を入れる。おお。未来が見えた。
「CPUが浮いていました」
技術系だろうか、若い彼の説明はじつに明快でわかりやすかった。
マリオは、アナがあったら入りたい気分だった。
そう、この日まで、ハコを開けることすらできなかったマリオは、ハコを開けることで展望が開けるであろうことを知ったのだった。
それまで、ハコを開けてしまうとメーカーのサポートは受けられないと信じていた。おそらくその通りだったろう。だから、頑なにハコを開けることだけはしなかった。しかし。
この日を境に変わった。ハコを開けさえすれば、なんとかなる。
そう。実際、多くの場合、ハコを開けるとなんとかなった。

さて。そろそろ紙数もつきてきたようだ。というより、もうたくさん、という気分であろう。いよいよ、次回は、ディレクター・マリオが中古ショップの店員・マリオに変貌するきっかけを語ることにしよう。